文の林

つたない文章の雑木林です

A死の場合

早朝、目覚めて外を見たら明るかった。
数日前が秋分の日だったので
まだ暗いはずだと思っていた。
目覚めは頭はスッキリしていて体が軽い。
仕事に行ってもバッチリこなせるだろう。
仕事?
そうだ、会社はだいぶ前に退職したのだ。

会社で私の部下だった和子と結婚した。
付き合い始めた時、電話するのは緊張した。
今の携帯電話と違い一家に一台なので
誰が出るかわからなかったからだ。
和子のお父さんが電話に出たら
無言で受話器を置いた。
仕事の合間に結婚出来て良かった。

まもなく長男の一太郎が生まれた。
私は息子が二十歳になり、
一緒に酒を飲むのが楽しみだったので、
男の子が生まれてうれしかった。
仕事が忙しくて子供の面倒はみんな
和子に任せていた。
アパートを出て郊外になったが
なんとか小さな家を建てることが出来た。
自分の城が出来て王様の気分だった。

X社は他社の機器をずっと採用していた。
私達はわが社の機器を売り込もうと
躍起になって営業をかけた。
他社の機器とは性能では互角だったが
人脈で負けてしまった。
次にY社の営業では採用を決定する人に
昼夜営業をかけた。
会社に言ってないが自分のお金で
けっこう接待した。
同僚と飲むとき、機器を売る部門から
部品を購入する部門に移りたいと
話をしていたが、ずっと営業だった。
Y社に採用してもらい、社長賞をもらった。
会社の方ばかり見ていたので
家の方はぜんぜん見ていなかった。
転勤で家族揃って地方に行ったが
和子には苦労をかけた。
子供の学校行事や誕生日などの
記念日も全然参加できなかった。
それでもサラリーマンの親から生まれた私が
よく部長まで出世できたもんだ。
耐えて耐えて会社勤め、定年後も
少しの間、嘱託で働かせてもらった。
自分は縁の下の力持ちだった。

一太郎と酒を飲む夢は実現した。
誕生から20年経ったと、感慨深かった。
息子が結婚して自立した。
私の役目は終わったと思った。
昨夜は嫁の直子さんから酌をしてもらった。
自分の子供に女の子がいなかったので
「おとうさんどうぞ」と言われ、
ちょっと照れくさくて背中がかゆくなった。
飲み屋のママも店のお姉さんも、
宴会に来たコンパニオンさんも
私に向かって「お父さん」なんて
誰も言ってくれなかったからね。
初孫が生まれてすぐに抱かせてもらったが、
落としたらと心配しヒヤヒヤだった。
もうすぐ2歳になるので、抱き上げたら
どっしりと重たかった。
初孫からつたない声で「じぃじ」と言われ、
一瞬後ろを振り向いてしまった。
誰もいなかったので、自分の事だと
わかったが、私も知らないうちに
老人の仲間入りしたと感じた。
長生きして良かったとつくづく感じた。
孫はあと4年で小学校に入学だ。
お祝いに何を贈ろうかな?

直子さんが朝食の準備が出来たので
ベッドに呼びに来た。
異変を感じて、義母の和子を呼びに行った。
直子さんが
「お父さん笑っているようだね」と言った。
和子は
「お父さんにとって思い残すことがない
いい人生だったんでしょうね」と言った。